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History of Japan

歴史に関するメモです。
歴史はいろいろな説があったり、善悪の解釈が異なったり、時系列の前後が微妙だったりするので正解ははっきりしないですね。

年表
1914~1918 第一次世界大戦
1918.9.29 国民への武力行使の反発により寺内正毅内閣総辞職 立憲政友会原敬内閣成立 初の政党内閣(元老山県有朋)
1920.5 小選挙区制度になった衆議院選挙 立憲政友会278議席で圧勝
1920.5 文官任用令を改正 藩閥が独占していた行政に党員を送ることが可能になる(原内閣)
1921.10.27 スイス駐在武官少佐永田鉄山、ロシア駐在武官少佐小畑敏四郎、岡村寧次少佐 ステファニーホテルで会談
1921.11 原敬首相暗殺(中岡艮一)
1924 憲政会・政友会が議会の過半数を獲得し、二大政党時代が始まる。加藤高明内閣成立
1926 大正天皇崩御 元号が昭和になる
1927 憲政会の若槻禮次郎内閣失言により恐慌を招いたため退陣、立憲政友会の田中義一内閣成立(元老西園寺公望)
1928.2 25歳以上全男子に選挙権がある第一回普通選挙実施 立憲政友会217獲得 立憲民政党216獲得(旧憲政会)
1928.4 政友会は公約通り山東出兵 軍部は消極的
1928.6.4 張作霖爆殺事件(関東軍参謀大佐河本大作)
1929.7.2 張作霖爆殺事件の事後対応で天皇から叱責されたため、田中内閣総辞職。民政党浜口雄幸内閣成立
1930.1 金解禁 不況を招く(浜口雄幸内閣)
1930.5 ロンドン海軍軍縮会議が始まる
1930.10.2 ロンドン海軍軍縮会議 ロンドン海軍軍縮条約批准 のちに統帥権干犯問題が起こる(政友会総裁犬養毅)
1930.11 浜口首相 狙撃
1931.4 民政党から第二次若槻礼次郎内閣成立 協調外交を行う
1931.9.18 満州事変 民政党の外交に不満があったため(板垣征四郎、石原莞爾)
1931.12 満州事変を収拾できず若槻内閣退陣 軍部の関係を深めていた政友会犬養毅内閣成立
1932.12.10 日本代表・サイモン会議(ジョン・サイモン、リットン調査団)
1932.5.15 五・一五事件 犬養毅首相暗殺 以降1945年まで政党政治はなかった
1933.2.24 国際連盟脱退(外相内田康哉、全権松岡洋右)
1933.4中旬 陸軍省・参謀本部首脳会議 永田と小畑が対立
1935.5 陸軍 対ソ防衛のため中国北部からの退去を要求。これは外務省とは逆の外交方針(外相広田弘毅)
1935.5.29 30 天津軍 中国政府に対し北京周辺からの撤退を要求(天津軍参謀長酒井隆)
1935.6.27 外務省で日本の孤立を防ぐため「防共協定」という案が出る(外務次官重光葵、外相有田八郎)
1935.8.12 相沢事件(軍務局長永田鉄山、陸軍中佐相沢三郎)
1935.12 北京近くに冀東防共自治政府 成立(関東軍参謀副長板垣征四郎)
1936 中国で抗日運動
1936.7 アンソニー・イーデンイギリス外相と吉田茂駐英大使 会談
1936.10.8 国民政府蒋介石と川越茂大使 日中国交交渉
1936.11.25 日独防共協定 成立(中独陸軍武官大島浩、外相有田八郎)
1936.12.15 蒋介石 ソ連と提携へ方針を固める
1937.7.7 盧溝橋事件 日中戦争~1945(牟田口廉也)
1939.11 参謀本部 現地軍が軍縮小計画の緩和を要求(支那派遣軍総参謀長板垣征四郎、軍務局予算班西浦進)
1940.2上旬 参謀長会議 現地軍と妥協(支那派遣軍参謀副長鈴木宗作、軍務局長武藤章)
1940.9.27 日独伊三国同盟 当時の世論はこれを支持、外務省や海軍の本音は不支持 これにより英米との関係は悪化
1941.5.22 第25回大本営政府連絡会議(外相松岡洋右、参謀総長杉山元、東条英機陸相)
1941.6.22 独ソ開戦
1941.9.3 第50回大本営政府連絡会議(海軍軍令部総長永野修身)
1941.10.14 近衛内閣 閣議内で陸軍大臣東条英機が演説
1941.10.16 近衛内閣 総辞職 日米交渉の行き詰まりのため
1941.10.18 東条内閣成立
1941.10.23 第59回大本営政府連絡会議 国策再検討(企画院総裁鈴木貞一)
1941.11.5 帝国国策遂行要綱 開戦決断は12.1に先送り
1941.11.26 連合艦隊出撃
1941.12.1 御前会議にて太平洋戦争開戦決定(首相東条英機)
1944.7 サイパン陥落 絶対国防圏崩壊
1944.7.22 東条内閣総辞職


キーワード
政友会 強硬外交、積極財政を訴える政党
民政党 緊縮財政を訴える政党

証言
NHKの番組 「日本人はなぜ戦争に向かったのか」から

企画院総裁鈴木貞一 
 「戦争をしなくちゃいかんということを考えておった人は陸海軍といえどもいないんだな。本当に計算してやれば戦争なんかできないんですよ」
 「日本にはねそんな計画的なものは1つもない。これは今でもそうなんだがね、その時に起こってくる現象に沿うていろいろなことをやっているわけだ。だから日独同盟を結んでね。そして日独同盟の力でアメリカに対抗しなきゃということだったがそれが結局裏目に出たんだな」
 「広い目で世の中を見て多少改革もやらなくちゃいかん、そういう考えを持っていた人は永田(鉄山)さんだけでしたからね。第一次大戦後のドイツを見て日本を振り返ってみてねこれではいかんという考えを持たれたんですね」
 「万一満州で事が起こったときにあまり右顧左眄しない人を(関東軍に)おってもらった方がいいのではないかということで板垣(征四郎)とか石原(莞爾)に行ってもらった。あそこに三宅(光治参謀長)という毒にも薬にもならない人がおったわけだ。それで満州事変をやったということだな」
 「東条君が言うたのはあれだけの人間を殺してだ、そして金も使いだね、ただ何も手ぶらで帰ってこいということはだなできないと」
 「2人ね僕の家にやって来たですよ、夜。海軍大臣は及川(古志郎)、それと外務大臣をやっておった豊田(貞次郎)。何しに来たかと思うと結局その企画院総裁が御前会議の時にだね戦争は絶対できませんということを御前会議の前にだ陛下に内奏してもらいたいと、海軍は戦できない、やりたくないと。僕は言ったんですよ、そんなことを言うことはちょっとできませんって。それよりも海軍大臣がはっきりしたことをおっしゃらなければ」

陸軍軍務局長佐藤賢了
 「私は東条さんにも言うたんですが船はまるでナイアガラ瀑布の上まで来てしもうたんだから右にも左にも舵が切れないです滝つぼまで飛び込むより他にしようがなかったんだと」
 「これは開戦決意をしたんじゃない。「開戦決意をするという決意」なんですから。開戦決意をする時期を10月上旬と明示したのです。ほとんど望みはないけれども、何しろまだ交渉をやるんだから万に一つもいわゆる我が目的が貫徹することがあるかもしれんと、こういうところにみんなの安易な逃げ場所があったのだと私は思うのであります」
 「独裁的な日本の政治ではなかった。だから(戦争回避は)できなかったんです。戦争には入れた、入れるようになったのであると思うんです。こうした日本人の弱さ、ことに国家を支配する首脳、東条さんはじめ我々の自主独往の気力が足りなかったことがこの戦争に入った最大の理由だと思う」

軍令部作戦部長福留繁
 「永野(修身)さんは「2年から頑張ってそれ以上のことは分からん」ということは要するに「その時は勝つ見込みは少ないですよ」という言葉の代わりに私はそういう言葉を言ったんだと、「負ける」といったようなことは言えませんから」

同盟通信松本重治
 「実際スターマー(ドイツ特使)が来たのは9月7日で、その二日ほど前に近衛(文麿)さんとゴルフをしたと思うんです、軽井沢で。その時に近衛さんが「スターマーが来やがるし」と言って、近衛さんは日独伊協定あんまり反対はないけど賛成でもなかった」

メモ
A級戦犯として告訴された鈴木貞一は100歳、平成まで生きた。すご